ビタミンの概念が確立する前(19世紀末以前)、海洋大国であったイギリス(大英帝国)において脚気や壊血病などの栄養欠乏症はどのように理解・対処されていたでしょうか?
- 何かしらの欠乏症として正確に理解されていた。
- 栄養不足が原因とわからず、不衛生や伝染、あるいは神罰など様々な迷信的・仮説的解釈がされ、確実な予防策はなく対症療法に頼った。
- 食事や衛生と病気は無関係とされ、治療は一切行われなかった。
- 病気は存在せず、栄養欠乏症という概念もなかった。
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解説
栄養学が未発達だった18世紀から19世紀前半にかけて、イギリスをはじめとするヨーロッパの海洋大国では、脚気や壊血病といった原因不明の病気が船乗りたちを苦しめていました。特に壊血病(ビタミンC欠乏症)は、長期航海で新鮮な果物や野菜を確保できない中、船員に重篤な症状を引き起こし、死者を多数出したことで悪名高い病気でした。しかし当時、ビタミンや微量栄養素の概念は存在せず、以下のような状況が一般的でした。
原因解釈の多様性と混乱
壊血病や脚気の発生メカニズムは全く解明されておらず、イギリス海軍内でもさまざまな仮説が飛び交っていました。
伝染病説
一部の軍医や学者は、これらの疾患を他の感染症と同様、何らかの微生物性または伝染性の原因があると考えましたが、明確な病原体を特定できませんでした。
環境・気候要因説
長期航海中の高温多湿な船内環境、腐食した食糧、悪臭漂う飲料水などが要因と見なされ、船内衛生改善や風通しの良い居住空間の確保、換気対策などが実行されましたが、根本的な解決には至りませんでした。
迷信的・神秘的解釈
一部では、航海中の悪運や神仏の怒り、航海ルートの呪いなど、超自然的な説明が語られることもありました。
海軍・探検隊における深刻な影響
イギリスは大英帝国として、インド洋、太平洋、大西洋を股にかけた広大な交易網と植民地支配を展開していました。長期航海は経済的・軍事的戦略上不可欠でしたが、壊血病はこの戦略行動を大きく阻害しました。
人的損耗
壊血病や脚気によって船員が大量に倒れると、軍艦の戦力は大きく低下し、商船隊の運航に支障を来します。代替要員確保、罹患率低下のための模索が続きましたが、確実な予防策がなかったため、人的・経済的コストが膨大でした。
指令伝達・軍事行動の遅延
病気の流行は艦船の行動を制限し、遠征や植民地支配計画が思うように進まない原因ともなりました。
経験則による対策の試行錯誤
一部の船医や探検家は、新鮮な果物(特に柑橘類)が壊血病改善に効果的であることを経験的に把握していました。たとえば、ジェームズ・クック船長(18世紀後半)は、航海中に漬物や芽が出た麦芽汁、野菜、柑橘類の摂取を奨励し、壊血病罹患を減らす実績を残しています。しかし、この段階では「ビタミンC欠乏」が原因であるとは理解されておらず、あくまで対症的な手法にとどまりました。
こうした試行錯誤的な対策は、全てが体系的な科学知識に基づいたものではなく、「あの食材を摂取すると症状が軽減するらしい」という不確かな経験則レベルの対処でした。
科学的理論への道のり
実際に、ビタミン理論が確立され、特定栄養素の欠乏が病気を引き起こすことが明確になるのは20世紀初頭以降です。イギリスを含む各国が、栄養学や生化学の発展によって、かつて謎の多い病気とされた壊血病・脚気などを「欠乏症」として理解できるようになるまでには、1世紀以上にわたる遠回りが必要でした。
まとめ
イギリスのような海洋帝国では、長期航海に伴う壊血病流行が深刻な問題だったにもかかわらず、栄養欠乏という概念がなかった時代には、原因究明は暗中模索の状態でした。伝染説や環境説、迷信的説明が併存し、確立された予防・治療法はないまま、試行錯誤が繰り返されました。ビタミンの概念が生まれるまで、この状況は大きく改善されず、当時の国力や軍事行動、交易戦略にも影響を及ぼしたことが特徴的です。