ベルリンの壁が1989年11月9日に崩壊する前、東ドイツ(GDR)はどのような政治体制と社会状況だったでしょうか?
- 自由選挙が行われ、資本主義経済が機能していた
- ソ連の影響下にあり、社会主義体制で市民の移動や表現の自由が厳しく制限されていた
- 東西間で自由往来が既に可能で、壁は単なる観光名所だった
- 完全な無政府状態だった
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解説
東ドイツ(GDR: German Democratic Republic)は、第二次世界大戦後にドイツが東西に分割された結果、1949年10月7日に誕生した国家であり、東側陣営を主導したソビエト連邦の強い影響下で社会主義体制を敷いていました。
この体制下では、国家保安省(シュタージ:Stasi)による徹底した監視社会が築かれ、メディアは国営・統制下にあり、言論や出版の自由は厳しく制限されていました。市民が国家政策を批判することは困難で、学校教育や社会活動もイデオロギー的統制を受けていました。
言論の自由の制限
情報統制とプロパガンダ
東ドイツ政府は共産党(社会主義統一党:SED)の一党独裁体制のもとで、新聞・雑誌・放送局を統制し、国家が許可した情報のみが流通する仕組みを敷いていました。反体制的な表現は検閲され、異議を唱える知識人や作家、ジャーナリストは職を失うか、当局から厳しい監視・弾圧を受けました。
国家保安省(Stasi)による監視
シュタージは、社会全体にスパイ網を張り巡らせ、国民同士を相互監視状態に置くことで反政府的活動を未然に抑え込みました。市民は親密な関係者や同僚、隣人にすら信頼を置きにくくなるような雰囲気が醸成され、政治批判は家族の中でさえ慎重に扱われました。
1950年代から1980年代まで、シュタージの監視は一貫して強力でしたが、1980年代後半、周辺国の変革や国際圧力増大に伴い、体制内部でも対策が立てづらくなり、最後には監視体制が崩壊へとつながる一因となりました。
移動の自由の制限
ベルリンの壁と国境警備
崩壊の約28年3ヶ月前、1961年8月13日に建設開始されたベルリンの壁は、東ベルリン市民が自由に西ベルリンや西ドイツへ逃げることを阻止する物理的障壁でした。壁には監視塔、警備兵、地雷や自動射撃装置、警察犬などが配置され、脱出を試みる者は射殺される危険を冒すことになりました。
壁建設後(1960年代以降)は越境が極めて困難な状態が続きましたが、1980年代後半に東欧諸国で改革が進むと、ハンガリーなどを経由した迂回逃亡が増えました。
国内外移動の厳格な管理
東ドイツ国境は厳しく警備され、正規の旅券や渡航許可なしでの西側訪問は基本的に不可能でした。ごく一部の社会的信用を得た人(スポーツ選手や外交官など)に限って管理下での西側訪問が許されることもありましたが、多くの一般市民には届かない特権でした。また、国内旅行や住居移転にも許可が必要な場合があり、自由な移動は著しく制限されていました。
1960年代から1980年代前半まではこうした制限が厳然と続きましたが、東西緊張緩和や他の東欧諸国の国境開放などを受け、1980年代後半には実質的に管理を維持しきれなくなりました。
逃亡への試みと抑圧
西側への逃亡を試みる人々
壁の建設前(1961年8月13日以前)は、東から西へ移動する人々が多く、知識人・熟練労働者や若者を中心に東ドイツ社会から流出が続いていました。壁建設後も、命がけで壁を越えようとする試みが絶えず、推計で数百人が国境通過中に死亡したとされています。
政治亡命の困難さ
東ドイツ市民が合法的な手段で西側に行くことは困難であり、政治的理由で国外へ脱出したい者は地下組織や偽装書類、あるいは危険な逃亡計画に頼るしかありませんでした。見つかれば重い処罰が待っており、家族や親族にも影響が及ぶことがあったため、逃亡は命がけの行為でした。
まとめ
東ドイツは、東西冷戦の象徴的存在としてソビエト連邦の社会主義体制を継承し、市民生活を国家が厳しく統制していました。言論や出版活動は検閲と監視下に置かれ、自由な情報流通は許されず、移動の自由も抑圧されました。ベルリンの壁や国境線は、国民を域内に閉じ込め、西側への脱出を断固阻止するための実力行使でした。
しかし、時代が進むにつれ、周辺国の動向や国際関係の変化、国内の反体制活動の活発化により、こうした体制は徐々に揺らぎ、1989年の壁崩壊へと至ります。