16世紀中頃からコーヒーがオスマン帝国の都市文化として定着し、コーヒーハウスが各地に誕生する前、人々が情報や思想を交換する際、主にどのような場に頼っていたでしょうか?

  • 書籍が豊富に揃った公立図書館が都市中に存在した
  • 文字情報が少なく、口頭での交流が中心で、交易市場やモスク周辺で情報交換していた
  • 秘密の地下室でのみ談話が許されていた
  • 石碑に文字を刻んで会話していた

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解説

コーヒーがオスマン帝国領内(16世紀中頃から)に広まり、その嗜好品としての価値が認識されると、イスタンブールやカイロ、ダマスカス、バグダードなど主要都市では、ほどなくしてコーヒーハウスが台頭しました。

コーヒーハウスは、もともと市場やモスク周辺で行われていた口頭での情報交換、商談、娯楽を、より洗練された「室内の公共空間」へと集約する新しい社交の舞台となっていきます。

コーヒーハウスがもたらした知的サロン化

市場や宗教施設周辺の空間は、多様な人々が行き交い、情報や噂が自然発生的に行き来する場でした。しかし、それらは特定の議題を掘り下げるには騒々しく散漫な環境でもありました。コーヒーハウスは、香ばしい飲み物を嗜むリラックスした雰囲気の中で、学者、商人、職人、文人、詩人、政治家予備軍、あるいは官僚階層の人々までもが腰を落ち着け、時に即興詩や物語の口演を楽しみながら、政治問題、文学作品、哲学的議題、宗教論争などを議論する「知的サロン」と化していきます。

このような空間は、前近代社会では稀有な情報と思想の交差点となり、啓蒙の芽や批判的思考を育む土壌を形成しました。

抑圧と寛容:権力との緊張関係

オスマン当局は当初、コーヒーハウスに対して懐疑的でした。その理由は、コーヒーハウスが単なる嗜好品摂取の場にとどまらず、潜在的な反政府的言論や異端的思想の温床となり得るからです。

実際、統治者たちが極度の情報コントロールを試みる社会では、公共の議論の場は危険な存在になりかねません。権力はコーヒーハウスを何度か禁止したり取り締まったりしましたが、コーヒーへの嗜好やそこに集う人々の多様性ゆえに、完全な排除は困難でした。

最終的には、コーヒーハウスは社会の不可欠な一部として定着し、権力と市民社会との間に微妙な緊張関係を孕み続けました。

近代化・国際交流とコーヒーハウス

オスマン帝国が近代に入ると、欧州列強との政治的・経済的接触が増大し、トルコ改革(タンジマート)期やその後の立憲運動期には新しい政治思想やナショナリズム、近代的な法・制度の議論が市民社会に広がっていきます。

コーヒーハウスは、これら新思想の普及を助長する一種の「情報ハブ」となりました。ヨーロッパ諸国から流入する新聞やパンフレット、密かに流通する風刺画や批評文、国内外から渡来する旅行者や商人がもたらす知識や体験談などが、コーヒーハウスに集積し、人々は対話を通じて新たな価値観や改革理念を共有し始めます。

コーヒーがもたらしたオスマン帝国崩壊への影響

後期オスマン帝国は、領土の縮小や欧州列強の干渉、民族主義運動の台頭、経済的逼迫、改革の停滞など、多くの難題に直面していました。この中で、コーヒーハウスは反権力的な談話、改革運動の計画、知識人の共鳴、ジャーナリズムの拡散などの役割を果たす場となり得たのです。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国は内部の諸民族が自治や独立を求め、また欧州列強の影響力が増す中で、統治の正統性が揺らぎました。知識人や若き官僚、軍人たちがコーヒーハウスで交わす議論は、しばしば旧体制に対する批判、欧米的近代国家モデルへの憧れ、新憲法制定や立憲体制支持といった、体制変革志向を醸成していきました。

こうした議論空間の蓄積は、のちの青年トルコ人革命(1908年)や、第一次世界大戦後のオスマン帝国崩壊とトルコ共和国成立(1923年)につながる政治的転換を間接的に支える知的インフラの一翼を担っていたといえます。

まとめ

コーヒー導入以前の口頭交流から、コーヒーハウスを舞台とした知的サロンへと発展した公共空間は、オスマン帝国において社会・文化の活性化に寄与しました。そこでは新思想・批評精神が育まれ、近代化・国民国家形成や民族運動の知的土壌が醸成されました。

結果的に、この知的ネットワークは帝国後期の内外情勢が流動化する中で、旧来の権威に異議を唱え、新体制を模索する多くの人々に影響を与え、帝国崩壊や新生トルコ国家誕生への遠因ともなっていったのです。