映画『スター・ウォーズ エピソード4』が公開される約4年前の1978年7月1日に日本で公開された、ジョージ・ルーカス監督・脚本の青春映画は何でしょうか?
- 『スローターハウス5』
- 『市民ケーン』
- 『イージー・ライダー』
- 『アメリカン・グラフィティ』
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解説
1973年8月11日(日本では1974年12月21日)に公開された『アメリカン・グラフィティ(American Graffiti)』は、ジョージ・ルーカスが大学時代から温めていたアイデアをもとに製作された青春映画であり、その時代(1962年)のアメリカ西海岸の若者文化、特に小さな町で夜な夜な車を走らせ、ラジオDJやロックンロール音楽を背景に仲間たちと交流するティーンエイジャーたちの姿を、郷愁的かつリアルなタッチで描き出しました。
制作背景と初期キャリア
ルーカスは南カリフォルニア大学(USC)で映画を学んだ後、1971年に初監督作『THX 1138』を世に出しましたが、この作品はSF的かつ前衛的で、批評的評価は得たものの商業的には振るわず、スタジオ側からは難解な監督と見なされていました。
そんな中、プロデューサーでありメンター的存在だったフランシス・フォード・コッポラの支援も受けながら、より普遍的な若者文化をテーマに取り、個人的経験(ルーカス自身が青春期に過ごしたカリフォルニアでの思い出)に根ざした作品として『アメリカン・グラフィティ』を制作します。
興行的成功と評価
『アメリカン・グラフィティ』は制作費が低予算(約77万ドル)であったにもかかわらず、全米で大ヒットし、最終的に1億ドルを超える世界興収を達成しました。
コストパフォーマンス抜群の成功例として、ニュー・ハリウッド期を代表するヒット作となり、かつ若者向け映画が大きな市場性を持つことを改めて実証しました。同時に、『アメリカン・グラフィティ』は、ルーカスが「商業的にも成功し得る監督」であることをハリウッドに示す重要なステップとなったのです。
ドラマツルギーと後の作品への影響
この映画は明確な中心プロットよりも、「一晩」という限られた時間の中で異なる青春群像が交錯するモザイク的な物語構造をとっています。ロックンロールが流れるカーラジオの音声、通りを流すホットロッド(カスタムカー)、進学・就職・兵役など人生の岐路に立つ若者たち――こうした要素の組み合わせは、ルーカスが得意とする「世界観作り」をリアルな日常に落とし込んだ初期の成功例といえます。
後に『スター・ウォーズ』で展開される、架空世界のディテールを緻密に構築するスタイルは、この「雰囲気」「空気感」を大切にするアプローチからも影響を受けたと考えられます。
実績による発言力獲得と『スター・ウォーズ』への道
『アメリカン・グラフィティ』の大成功により、ルーカスはスタジオとの交渉力を高めました。初監督作での赤字を挽回し、大衆に愛されるエンターテインメント作品を生み出せる監督として、次回作の企画を有利な条件で進められるようになったのです。
こうしてルーカスは、1950年代や60年代へのノスタルジーに満ちたアメリカン・グラフィティの次に、全く異なる領域であるスペースオペラの世界に挑戦する準備を整えます。その結果生まれたのが『スター・ウォーズ』(1977年)でした。この作品は、かつてない規模と完成度で銀河を舞台にした冒険を描き、映画史を塗り替える一大現象となりました。『アメリカン・グラフィティ』によって得た商業的成功と制作上の自信、そしてスタジオからの一定の信頼がなければ、『スター・ウォーズ』という巨大プロジェクトの実現ははるかに難しかったといえます。
映画史への位置づけ
『アメリカン・グラフィティ』はアメリカの青春文化を温かく描き、オールディーズ音楽の再評価に拍車をかけるなど、社会的・文化的にも影響を与えました。そしてルーカス個人にとっては、クリエイターとしての地位を固め、新たな挑戦への足がかりとなった重要な作品でした。
「低予算の青春映画で成功→一躍注目を集める→大予算スペースオペラに挑み世界的大ヒットへ」という流れは、映画監督として成功するための一つのモデルケースとなり、その後の映画製作の流れやハリウッドの企画選定に影響を与えたといえるでしょう。
まとめ
『アメリカン・グラフィティ』はジョージ・ルーカスにとって、商業的成功と大衆受容を得ることで創作自由度と交渉力を高める起点となりました。
その約4年後、彼は独創的なスペースオペラ『スター・ウォーズ』(公開時のタイトル)で、再び映画史を塗り替える大成功を収めます。青春映画から銀河規模の冒険へというジャンプは、『アメリカン・グラフィティ』で築かれた実績と信頼なくして語れません。