イギリスは、2016年6月23日の国民投票でEU離脱(Brexit)が決定する以前、どのような立場でEUに参加していたでしょうか?
- イギリスはEU設立当初から最も熱心な推進国で、ユーロ通貨も採用していた。
- イギリスはEU加盟国ではあったが、シェンゲン協定やユーロ通貨圏には加わらず、独自通貨ポンドを維持し、出入国管理も独自に行っていた。
- イギリスはEUに参加していなかったが、EUと同等の自由貿易権を享受していた。
- イギリスはEUには参加せず、NATOのみを通じて欧州との関係を維持していた。
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解説
イギリスは、EU離脱が決まった国民投票の43年5ヶ月22日前、1973年1月1日に欧州共同体(EC)へ加盟したものの、欧州統合プロセスに対して一貫して懐疑的、かつ独自路線的な立場を取り続けてきました。これには経済的・政治的・歴史的な要因が複合的に関わっています。
なお、EU離脱は2020年1月31日です。
歴史的背景と国民感情
イギリスは、かつて大英帝国として世界各地に植民地・自治領を有し、欧州大陸と異なる独自のアイデンティティを築いてきました。そのため、大陸諸国と統合することには根強い慎重論が存在しました。第二次大戦後の欧州統合の流れの中でも、イギリスは当初EC参加を見送っていました。
1973年に加盟したものの、元々EC外での経済関係(英連邦諸国やアメリカとの関係)を重視してきたことから、大陸ヨーロッパとの一体化には常に距離感がありました。
独自通貨ポンドと非参加事項(シェンゲン圏不参加)
EUの前身であるEC時代からイギリスは、「単一通貨ユーロ」や「シェンゲン協定(域内国境検問廃止)」といった深い統合プロジェクトには参加しませんでした。
通貨ポンド維持
イギリスはユーロ圏への参加を拒否し、独自の金融政策を保ち続けました。これはロンドン金融街(シティ)の独自性や、ポンドの歴史的・経済的象徴性を維持するためでした。
シェンゲン協定不参加
人の自由移動を拡大するシェンゲン圏には加わらず、EU内であっても国境管理を続けることで移民・出入国管理に独自の裁量を残しました。
これらは、イギリスがEU加盟国でありながら「特別条項」や「オプトアウト(適用除外)」を多く抱える、いわば「EUのフルメンバーだが距離を置いた参加者」であり続けたことを示します。
国内政治への影響と継続する欧州懐疑主義
イギリスには、加盟後も「欧州懐疑主義(Euro-scepticism)」と呼ばれるEU統合に批判的な立場が存在し、特に保守党内にはその声が強くありました。これらは、EU法規制への不満、移民増加による社会変化、主権侵害感(英国議会主権がEU法によって侵されるという認識)などを根拠として、断続的に拡大・縮小を繰り返してきました。
「半足突っ込んだ状態」であることは、EUの中心的プロジェクトにコミットしないことで国民や議会に「EUとは一線を画している」という安心感を与える一方で、逆に「なぜ中途半端な関係を続けるのか」という不満や矛盾も生じさせました。つまり、この中途半端な距離感は、イギリス国民や政治家たちがEUとの関係を常に問い直す土壌を育んでいたのです。
EU離脱決定までの下地
2016年のEU離脱の是非を問う国民投票(Brexit投票)は、こうした長年のEUとの距離感や国内の欧州懐疑主義が顕在化した結果といえます。決して1973年から離脱が「不可避」だったわけではありませんが、40年以上にわたりEUの中心には踏み込まず、特例的地位を保ち続けたことが、EU加盟そのものに対する問題提起や再評価を繰り返す素地となりました。
結果として、移民問題、グローバリゼーションによる経済格差拡大、主権意識などが2010年代に入りさらに鮮明化し、国内政治状況の変化(与党保守党内の圧力やUKIPの台頭)とも相まって、国民投票に至りました。つまり、イギリスの「独自路線」はEU離脱を必然的に導いたわけではありませんが、EUとの関係を流動的で不確定なままにすることで、将来EUから離れる選択が現実問題として浮上する余地を残してきたといえます。
まとめ
イギリスが加盟以降もEUの中心的統合策を回避し、シェンゲン・ユーロといった要所を拒んでいたことは、国内でのEU懐疑論を持続・成長させる土壌になりました。この「一定の距離感」は、後の国民投票を通じてEU残留か離脱かを国民が直接判断する流れにつながりました。投票結果は2016年の時点での政治的・社会的な判断であり、歴史的背景としてイギリスの「特別な立場」がその選択に影響したと考えることができます。